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図解集(要約付き)



請け合い/受け止め



共有されるべき認識



助詞は"扱い"



基本語形の表



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請け合い(うけあい)/受け止め(うけとめ)について
請け合い(うけあい)
「する/した」、「見る/見た」、「高い/高かった」、「暇だ/暇だった」などの一対となる語形のうち前者の語形。またその語形(語尾)に表れる主観の心。“主観対事象”という対立において主観が事象に対して主導的(主役的)であれば請け合いの意味を有する請け合いの語形になる。
受け止め(うけとめ)
「する/した」、「見る/見た」、「高い/高かった」、「暇だ/暇だった」などの一対となる語形のうち後者の語形。またその語形(語尾)に表れる主観の心。“主観対事象”という対立において事象が主観に対して主導的(主役的)であれば受け止めの意味を有する受け止めの語形になる。
“請け合い/受け止め”は、私たちの認識の基本そのものです
客観的描写をおこなった二通りの文例
兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇う鬼の面であって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ、愚劣だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。それにきまっていた。(太宰治『愛と美について』の冒頭より)
1(請け合いのみの文)
兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだ。長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇う鬼の面であって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ、愚劣だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。それにきまっている。
2(受け止めのみの文)
兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。長男は二十九歳。法学士であった。ひとに接したとき、少し尊大ぶった悪癖があったけれども、これは彼自身の弱さを庇った鬼の面であって、まことは弱く、とても優しかった。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だった、愚劣だったと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまったのは、いつも、この長兄であった。それにきまっていた。
1と2で異なるのは赤字にした部分だけで、1は、請け合い一色の文例、2は、受け止め一色の文例としてみました。
「する/した」の語形を選ぶ基準がもし、客観的な基準(絶対基準)であるのなら、このように「する/した」のどちらを使っても意味が通り、なおかつ文法的間違いが見当たらないということがあるんでしょうか?
上の1と2は、ともに意味が通り、どちらでも文法的に間違いだとは言えないのです。
この事実に対して、「昨日雨が降ります。」とか「明日雨が降りました。」とは言わないのだから、「降る/降った」は“時間”という絶対基準に関わっていると見て良い、という反論が出てきます。
確かにその発話例では、「昨日」なら「降りました」と言うべきであり、「明日」なら「降ります」と言うべきで、その逆はおかしな感じになります。
しかしそれも、「昨日」の事象を正しく伝えるのなら、主観が事象を受け止めているという発話をし、また「明日」の予測を述べるのなら主観が事象を請け合っているという発話をする、という説明だけで十分でしょう。
請け合うことで、事象の不確定性、未完了性、非過去性などを伝えることが可能となり、受け止めることで、事象の確定性、完了性、過去性などを伝えることが可能となるのであって、あくまでも“請け合い/受け止め”という“原理”によって語形は決定されるのです。
私たちは日本語習得の初期段階でこの“原理”を習得し、それを正しく使用することで「非過去/過去」であるとか「未完了/完了」であるとか、あるいは「未然/已然」であるといった“客観表現”をおこなう技術(日本語の運用能力)も次第に身につけていきます。
また“請け合い/受け止め”は、『基本語形の表』にまとめたものを見ていただけるとわかるように、日本語の基本語形をきわめて単純明快な体系として示すことも可能にします。
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